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日本人の生きる道ー神々への神拝作法について
 日本人の生きる道
  ―草木咸(ことごとく)に能(よ)く
        言語(ものいふこと)有り―
                      渡辺 勝義
『日本書紀』神代巻には「 ( い ) ( は ) 草木に
至及
( いた )るまでに、 ( ことごとく ) ( よ )
強暴
( あしか ) る」「草木咸 ( くさきことごとく )
( よ ) 言語 ( ものいふこと )有り」とあるように、
たとえ一木一草でさえも生命
( いのち ) を有しており、
皆、心を持っているということが分かります。

 
「一寸の虫にも五分のたましひ」「 ( つまづ ) く石も
( えん ) ( はし ) というように、どんな生き物
にもたましひが宿って
おり、またすべてのものは繋がり
合っているのですね。

 
まして神社等の神域や聖域ともなれば、御神殿や
鳥居ばかりでなく、境内にある建物や御神木、
瑞垣
( みずがき ) 狛犬 ( こまいぬ ) はもとより
一木一草に至るまでも、その神域
全体には神気が
満ち満ちており、時として神社の
ご神木に祭り
漏れの比古神や比女神が宿っていら
っしゃることも
あるのですから、決してこれらを
粗末に扱っては
ならないということが分かります。

 
心の清らかな人にはこうした樹木の声なき声や、
野の一佛さまの御心すらも聞き得るという位です。
私たちが無我無心、無私無欲の高い心境に至った
時にはこうした言語を超えた意念による意思の疎通
が可能になってくるのですネ。

鳥居の前に立ったら
( いず ) の鳥居 ( とりい ) は「これより神域( しんいき )である」ということの表示)

鳥居 ( とりい ) ( あ ) る」ということは、そこから先は
神域
なのであり、「御神霊がおわします」ということを示して
いる
のですから、鳥居の前ではきちんと身だしなみを整え、
こころを ( きよ ) め、身を清めて、先ず第一に己が住まい
する
住所と姓名をお届け申し上げ、
 
「これから氏神様に御挨拶を申し上げたく存じますが、
今から入らせて戴いても宜しゅう御座いますでしょうか。
どうか、お取次をお願い致します。」
 
と鳥居にあって外部から侵入する者らの ( けが ) れを
( はら ) い清めおられる御眷属 ( ごけんぞく ) 神に、
まずは御神霊
( ごしんれい ) への御取次 ( おとりつぎ )
お願いし、
そして、御眷属神から「良し、通れ!」と
お許しのお言葉を
( いただ ) いてから、
 
ハイ、有難うございます。粗相 ( そそう ) のないように
心掛けて
入らせて戴きますが、万一にも不手際や到らざる
ところが
ございましたら、どうか御無礼 ( ごぶれい )
お許しくださいませ!

 
と丁重に申し上げて、鳥居をくぐらせていただく…と
いうのが、
神に向かう人間としての基本的な礼儀であり、
日本人の
神々に接する際の態度というものです。

私たちは例え「神の声なき声」が聞こえないまでも、
いつもそのように心掛けて
鳥居をくぐらせて戴く
ように致しましょう。

 
作法」とはまさに「我が身が助かるための神への作法」
いうことが出来、神佛に対するこうした基本的な礼儀
作法を
失する時には、例えどんな祈りや願いをしようとも、
神が
聞こし召されるということは決して無きものと思うの
です
が…。
 
己(おのれ)の心が足らざる時はなかなか神佛の心と
いうものが
分からないものですが、そのように考え
ますと、
私たちはたとえ如何なる境遇にありましょう
とも、
今ある状況は結局は誰のせいでもなく、全ては
自分自身にあり、自業自得のなせる業(わざ)なの

と知る必要がありましょう。

 
author:渡辺勝義, category:-, 00:04
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質疑応答(於 大阪)
          質疑応答
   
  
    古道學研究会(於 大阪)
渡辺先生へ。

何時もお世話になっております。先日は私の愚問に懇切丁寧にお答えいただき
感謝しております。いわゆる俗流因果応報論が私の考えの根底にあった様です。
先生のご著書も読み直しての再質問でございます。ご講義の時、お時間があり
ましたらまたお教えください。

 
Q1.自己は消滅しても直霊は生き通しに生き続ける。その際、四魂は
   どうなるのでしょうか。死ねば四魂はどうなるのでしょうか

   私の理解で束ねがなくなり四魂はばらばらとなる。強烈な四魂は、
   眷属神と結びつくこともある。直霊は神に戻る。


      
   直霊(一霊)は天つ神の元に帰環し、四魂は國つ神の世界に帰り、
   肉体(魄)は墓場に鎮まる。その際、一魂でも完成した魂あれば、
   眷属として活動する。

   魄には荒魂が附着していることが多い。(わたなべ) 
   『古神道の秘儀』(356頁)を参照。

 
Q2.先祖が子孫を見守っているとよく言われますが、直霊のような
   高尚なものではないと考えられます。四魂が見守っているという事で
   しょうか。それとも魄でしょうか。

   
   「霊には霊を以て対する」という原則があるのだと申し上げました
   うに、霊魂に関する事柄を人間の知識で理解しようとしても所詮は
   無駄なのですが、それでは答えに成らず、かえって牧さんの悩みを
   深くしてしまうでしょうから、あえて言葉で伝えたいと思います。
   仏教では魄の世界から一歩も出てはいませんが、神道でのご霊璽には 
   亡き人の
御霊 ( みたま ) (霊魂)をお鎮めしているのであり、
    決して魄ではありません。年忌・年祭や春秋のお彼岸、お盆、また、
    真心込めての祭祀に関しては、全てではないにしても神界から直霊も
    戻ってくるのだと佐藤師は教えておられました。(わたなべ)

 
   私の理解では魄が見守ってくれる。先生は魄を残さず去るのが理想と
   言われていますが、それでは子孫を見守れないのではないですか?

 
   魄には何ら子孫を守る力も見守る力もありません。(わたなべ)
 
Q3.前世の因縁とか言われるものは魄があるからと述べられています。
   魄は肉体的なつながりから生じる物と考えて宜しいでしょうか?

 
   そうです。(わたなべ)

   私の理解では魄は肉体的、DNA的つながりを持ち子孫に禍あるいは
   幸運をもたらす。なお魄の居場所は墓である。

 
   そうです。(わたなべ)
 
Q4。先祖を崇拝するのは、肉体を授けていただいたからということでしょうか。
   先生のご著書に「霊なるは、自己の力徳のとるところ」と有ります。

   
   私の理解では魄(直霊と四魂の住処)を頂いたからと思います。
 
   そうです。(わたなべ)
 
Q5.御神歌集の「御霊の嘆きは底はかられぬ」とあります。御霊は
   ご先祖の魄ということでしょうか。神道のご先祖へのお祭りは
   魄に対する物なのでしょうか。

 
   御霊 ( みたま ) ( はく ) そのものではありません。(わたなべ)
 
   私の理解ではそのように考えます。神道でのご先祖のお祭りはどの
   ようなものでしょうか。仏壇で先祖を敬えばよいのでしょうか

 
   神道では善なる御霊(故人の神性)をお祭りしているのです。
   魄を祀るのではありません。(渡辺)

 
Q6.先生のご著書には関係ないのですが、古代日本では葬式の時、
   長い間死者と共に伏し、御霊を引き継いだと来たことが有ります。
   秩父では明治時代まであったと聞いております。この儀式は何を
   意味するのでしょうか。

 
   亡き人の御遺志を継ごうとする真心の表明であり、いわば
   「御霊もらい」というものです。家長が無くなった時、
   その長男が布団に同衾して御霊というか、ご遺志を

   受け継ごうとする行為です。(わたなべ)
 
   私の理解では、直霊、四魂を引き継ぐ意図があったように考えます。
   天皇の即位の儀式の前に前天皇に添い寝する儀式があると聞いた
   ことがあります。

 
   「先帝の御遺志を継ぐ」ことで王権の座に就く…という事を、
    内外に闡明せんがための行為です。(わたなべ)


Q7.神棚でのお祭りの仕方、祝詞の上げ方は特に注意することがあれば
   お教えください。

 
   厳重な潔斎を心がけ、何事にも「真心を込める」と言うことです。
   要は鎮魂力こそがものを言います。
   (鎮魂力とは神霊に通じる力のこと)(わたなべ)

 
   私の理解では祝詞をあげればよい。先祖の冥福を祈るべきでない。
 
   ご神霊を祭る神棚の前では「先祖の冥福を祈る」ということは
   しません。

    祖先の御霊を鎮める「祖霊社」ではそうしたこともあります。
                     (わたなべ)
 
Q8.仏壇への考え方。
 
   私の理解では仏壇は魄をお祈りする神殿と日本的に変容した。
   仏壇は神道も認めている。

 
   神道では人間の神性 ( かむさが ) の部分を、仏壇では人間の
   佛性(主に魄)の部分を祀ると考えた方が良いでしょう。
   ただし、僧侶たちは「魄」(はく)とは考えてはいないと
   思います。仏教では霊魂を認めませんし、釈迦牟邇世尊は
   「無記」といって、人間の頭で考えてもどうにも答えの出ない
   ものごとに関しては時間の無駄であるからかかわらないように
   と、弟子たちに教えています。(わたなべ)

 
牧 ○○○
 
 
追伸  霊学を修めなければ、霊・魂・魄や肉体との関係について、
    どんなに頭で考えて
もなかなか分かり難いものと思います。
    3次元世界に生きる者が4次元世界のこ
とはまったく分からず、
    皆目、地上から空の雲を掴むようなものです。

    たとえば、今日の脳科学者と自認している無知な者らは、
    人間の意識や精神活動というもののすべては脳によって
    作り出されているものとすっかり錯覚しておりますが、
    脳はパソコンのようなものであって、それ自体が意識を
    作り出しているのではありません。
    そんなことさえ分からないというのですから、学者など、
    たかが知れていると思いませんか。
    人間の意識というものは時空を超越した存在である魂が
    作り出しているものなのです。


    しかし、牧さんのように真摯に強く求める心がおありの
    方でしたら、こうした真実も自然に分かって来
られましょう。
    「自得する」というか、自ずから己れの霊魂が魄(肉体の自分)
    に
も教えられるものと思います。

    ただし、決して研究的態度ではならず、「理による悟り」では
    真実は掴めません。ますますのご探求、ご精進を心から
    祈らせて戴きます。

                     ―渡辺 勝義―
 
author:渡辺勝義, category:-, 15:01
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質疑応答(於 福岡)
         質疑応答(於 福岡)
渡辺勝義先生

こんばんは
今日の雨は冷たいです。まだ11月ですが、霜が降りる前に
雪という
感じでしょうか。
 
さて、「事前に質問を」との事で開催案内とともにお声をかけて
もらいましたが、
「いま思いつかない」という方が多く、最近の
○○○にお問い合わせのあった
事などを併せて挙げてみました。
このうち,らイ泙任亙拔会に来ている人の質問ではありません。
取捨は先生のお考えでお願い申し上げます。<黒字…質問、赤字…渡辺>
 
私が「事前に御質問を文字に書いて」と言ったのは、講話の前後の休憩時間
質問事項をあらかじめ質問者が書いて戴き、出来たら事前に手渡して戴け
れば…
という意味です。殆ど休みなく、一部・二部とも4〜5時間連続して
お話をさせて
戴いておりますと、講演直後の気分が高揚している時に、一体
なにを聞きたいのか、
その質問内容や真意がチンプンカンプンで咄嗟には理
解不能…といった質問が良く
あって、しかも、一人の質問者が幾つも質問を
されますと、それをいちいち
メモしていないため、時間が押して余裕のない
中で、何をどう答えてよいもの
やら分からずに答えている…ということが良
くあります。

 
また、誰も気づかないと思いますが、皆さまのご質問に答えて話している
時、
幽の神懸り」があって神霊が直接答えておられることがしばしば
あります。
それで、答える側としては質疑応答の前に、あらかじめ
「ご質問を文字に
書いて欲しい」という訳です。その方が、一から十
まで漏らさず、順序を
追って要領よく答え易いという理由からです。
                     (わたなべ)

 
 
  1. 旧暦の10月は出雲に氏神様が集われる神無月ですが、各神社は                          その間神様は おられないのでしょうか?                                    お留守の時にお参りしてもだめという人がいましたが…。
 
神霊というものは「時間・空間を超えた存在」でありますから、何処に
でも無限に
同時存在し得るご存在であるといっておきましよう。つまり、
人間界のように、
あっちに行ったから、こっちにはいない…ということは
有りません。

ただし、神霊が神社に何時もジッと神殿の中に蟄居して鎮まっておられ
る…と
いうことではなく、神社神界から各神社に神線というか、霊線
いうものが下って
おります。真心の祈りは必ず聞き届けられます。
                        (わたなべ)

 
  1. 出雲大社は縁結びの神様と聞きます。その他にもそういう御神徳を                        あげておられる 神社があります。神様が縁を結ばれる、所謂                           かみわざで結ばれる、と思う反面、離婚が増えているのは、神様の                        お力添えを頂いていないからでしょうか?それとも縁結び自体が                         正しく成立していないからでしょうか?どこからが人知でどこから                        が神計りなのですか?
 
産土 ( うぶすな ) の 神祈りして その後に 天地 ( あめつち ) の神は 
              祈るべきなり(本田親徳翁『産土百首』)

○産土の 吾が神おきて  ( こと ) ( むら ) の 産土拝む 
                      人は惑えり(『同上』)

○産土の 神と神との 神議 ( みはかり ) に 結び給ひし 夫婦 ( めを )
                    
( えにし ) ぞ(『同上』)
 
『古事記』や『日本書紀』を拝読すれば、神社に祭られるご祭神の
ご性格というか、
御神徳、御威徳というものがあり、後世、それを
「神霊の何たるか」を知らぬ神社の
神職たちが神社発揚の宣伝の
ために使っている…というのが実情のようです。

ただし、人と人との結びというものは決して出雲大社の神の専売特許
というものではなく、
強いて言うならば、各家々の親・先祖の御霊と
土地の産土
( うぶすなの ) さまの神慮 ( かむはかり ) に依るもの
です。
親・先祖の想いや産土神(氏神)とは裏腹に、神に祈ることもなく
(神意に依らずして)、
単に己れの私情のみで(人間の手前勝手で)
交際する人々がこれまた勝手に離婚した
としても、それを「神の
お力添えの無さ」などと解するのは全く誤っており、あまりに

人間側の身勝手と言えましょう。
 
「逢うべき人とは必ず今生で出逢うものだ」と良くいわれますが、
人との出会いは
見えない御縁の糸で結ばれているのでしょうね。
御縁というものは見えざる世界より
戴くもの」なのですネ。
御縁というものは「授かるもの」なのです。そうした場合は、
何事もスラスラと
運ばれていくものですから、そこに
「見えざる神のお守り」を感じて、当人には必ず
分かるものです。
                       (渡辺)

 
 
  1. 金神様という神様は怖いと聞きますが、そのような神様は                            本当にいらっしゃる のでしょうか?
 
川手文次郎さん(後の金光大神〓金光教教祖)は金神の回座する方位を
犯して家屋を
普請したとして、金神の激しい怒りに触れ、金神の祟り
<金神七殺>に打ちのめされ、
大事な家畜までもが命を取られたというお人
なのですが、その実意丁寧さが
金神に認められ、厚い信頼を寄せられ、
下葉の氏子から遂には金光大神にまで
出世されたお方です。そして、
川手文次郎さんの御蔭により、それ以来、
金神の祟りは無くなったと
言われております。

 
神霊と言っても、正神邪神の別があります。正神は人間たちの余程の
無礼や不敬の
無い限りは、決して「人間が畏れる」ような、恐ろしい神
という御存在ではありません。
また、ご神霊は大した用もないのに、自ら
人間に近寄って色々と干渉してくる…等という
ことは決してありませんが、
妖魅邪霊というものは向こうの方から人間に近付いて来て、
つまらぬ
ことを思わせ、色々と不思議を見せたりして干渉するにいたるものです。
                           (渡辺)

 
 
  1. 霊現象(人影やラップ音など)が最近引っ越した家で起きています。                        霊視などをして お祓いしてくれる神社は無いでしょうか?                           (いずのめ氏は、「まずそこから引っ越しした方がよい」と回答)
 
その土地の産土神(氏神)社にお願いして祓って戴ければ、そうした
霊現象は
祓える筈です。
 
「そうしたことが起る」というのは、一家に正しい信仰が無いために
起こります。
引っ越しをする場合には、お世話になって来た先住所の
土地の神さまにこれまでの
御守護の感謝を申し上げ、引っ越しに
至った事情を御報告申し上げることが、
まず、第一に大切となります。
 
次には新住所地の産土神様に引っ越しして来た訳を話し、よくよく
神にお願いする
と共に、家屋の清め祓いをお願いすることである。
そして人間や家具が引っ越す前に
必ず、「神棚や仏壇を先に入れる
ことが大事です。神仏やご先祖様がたに先きに入っていただくのですヨ。
こうしたことは常識中の常識
なのですが、現代人はこうした大切な
ことがまったく分かっていません。

 
さて、霊視などしなくとも、神への真心と強固な信念をもった、
心の清らかな
神職が御祭神に祈り、祓い戸四柱の神の昇・降神儀礼を
して大痲塩湯で祓えば、
必ずや祓われるものです。
それよりも大切なことは、これまでの生き方の誤りを深く反省して、
人間生存の意義についてシッカリ考え直してみることが大切です。
人としての踏み行うべき道」を正しく歩んでいて、おかしな出来事
には
遭わないものなのです。
 
要は、自分たちがいつも神に生かされ生きているのだという真実に
目覚め、
忠・孝・敬神・崇祖人たるの道さえ踏んでいけば、
何の心配も無き人生を
送ることになるということです。(渡辺)
 
5毎週土曜日ぐらいに憑霊される。(?)
除霊してくれる神社や寺を教えて欲しい。
テナントビルで、オーナーが引っ越しの際1階にあったお地蔵様
お祓いして
取り除いたらしい。それからの話とのこと。
 
お地蔵さまがあったということは、そこに死者の御霊様が存在した
ということ
です。お祓いしたら解決するなどということはありません。
御霊さまは救い上げ
なくてはならないのです(慰霊・供養が大切)。
しかし、なにも ( おそ ) れず真心をもってそのお地蔵様に
お茶湯やミカンの一個なりともおあげして、定期的に
お線香をあげて、
自分が知っているお念仏やお題目をお上げするなどしてこちらの
誠意を示せば、
そうした変な障りなどといったものはきれいに
無くなります。

なにごとにも「強い信念」と誠意(まごころ)ある祭祀(お尽くし)
こそが
神霊にも死者の御霊(みたま)にも通じる道であるということを
知って戴きたいものです。

私たちは常日頃から「生きる」ということの真の意味をシッカリと
考えながら、
これからの人生を誤りのない、豊かなものにして行く
ことが大切でしょう。 (渡辺)

 
6、祖先の霊魂様が、日々のご供養、お祀りを喜んでいるのか不満に
思っている
のかが分かれば、より良いご供養ができると思いますが、
霊感のない私たちにも
分かる祖先からのサインはあるのでしょうか?
それとも、そのような事は気にせずお祈りを続ければいいのでしょうか?
 
あります。御先祖様の喜びの念は必ず、慰霊・供養する者の心に映って
来て、
こころがウキウキしたり、なによりも安心感・安堵感という
ものが心に生まれて
きます。また、何ら嬉しいということもないのに、
涙が次から次に溢れ出てくる
ことが良くあるものです。
 
霊感というものは誰にも有るものです。ただし、世間によく言う
「霊感のある人」などといった人はほとんどが邪霊の憑依
よるものであり、
普通の人は産土 ( うぶすなの ) 神さまに
守られておりますから、「あそこに幽霊が立って居る」などと
いった
病的な、地を這(は)うような低い憑依霊による霊感などは無いと
思いますし、また、その方が
人間として正常なのです。(渡辺)
 
7○○宮では、百日行という形で先祖供養(浄化)をされている
方が多くいます。
そこでご質問ですが、先祖が早く浄化し、
より高い所に行けるようにするために、
心掛ける点、もしくは
お祈りの方法があればお教えください。


親・先祖さまの慰霊・供養というものは、先ず第一に大切なことは
自分たちの
生命 ( いのち ) ( みなもと ) である「親・先祖さま」
をいつも心から想うということ、心から
感謝するということが大切に
なって来ます。
次には、私たちが常々、
心正しく、清らかな生き方を心がけるという
ことです。

 
親先祖と子孫とは切っても切れない絆で結ばれており、丁度
コインの裏表」の
ようなものですから、まずもって自分たちが
日々の生き方
( ただ ) し、人間としての正しい生き方に
シッカリ目覚めることが必要です。自分たちの清めもなにも

しないでおいて、「先祖供養、百日行」などといってあせり
まわっても、それは
まったく本末転倒した行いですから、
誤れば誤っただけの責任を取らされましょう。

 
「己れの清め」無くして、「先祖の清め」などは決して無い
ものと知るべきです。
これはとても大切な点です。
要は「人はどう生きるべきか」といった「人間生存の意義」を、
シッカリと
学ぶことが大切です。人は誰しも「生かされて、
生きている者
」なのですから、
その生命の源に対する畏敬と
感謝の念
を片時も忘れない生き方というものが
大切なのです。
分かって戴けましたでしょうか?(渡辺)

 
勉強会での受講者の皆様方の質問は以上です。 
なお、私の個人的疑問で皆さんにも聞いて頂きたい質問は、
次の8〜10です。

 
8、至霊・直霊を「頂いている」「賜っている」と言いますが、
そうするとそれは
自分とはまた別の存在で、自分自身とは言えないと
いうことでしょうか?

 
決して別の存在というものではありません。本当の自分自身、
本来の自分なのです。
不可視の霊魂のことは頭で如何に考えても
決して分かるものではありません。

 
一霊(直霊)と四魂、肉体とは普段、ピッタリと別れ難く
結びついて一体化しており、
そのため、一般人にはどれが直霊、
どれが四魂、どれが魄(はく)などと、分けて
解することは
不可能ですが、霊學の修行者にはこれがハッキリと分かる
ものです。              (渡辺)

 
9、幽の祓いと、我が霊・我が体、の話は違う次元の話でしょうか?
幽の祓いを受けて祓われるという事と、「他神ありてこれを護るに
あらず」と
いう事は矛盾するのではないかと疑問に思いました。
 
事の大小といった、違う次元の話ですね。なにも矛盾しないと思います。
誰でも子供の時、「自分のことは自分でしなさい」と親から教わります。
ところが、自分でもどうにもならない、己れの身に余ることが起きた時
には、
親に助けてもらったりするものです。
 
世間の人は神や佛というものは「外にのみある」と錯覚し、かたくなに
思い込んでおり、己(おのれ)の身の内に生まれ乍らに神授の霊魂
産霊神の分け霊)が宿っているということを全く知りません。
だから、
外に守護霊や守護神が居るなどと思い込み、そしてそうした
ものが自分たちを
守っているのだとスッカリ錯覚しているのです。
まったくもって無知の極にある
というべきでしょう。

私たちは誰であっても「神の子である」ということをしっかり自覚し、
もっと「自分の尊さ」に目覚めて、どこまでも己を大切にし、
巷のおかしな宗教などに騙(だま)されないように、穢(けが)され
ないように十分注意して、自分自身を大切に、大切にして戴きたいと
切に願います。

 
人は皆、自分の判断や考え、自分の意志で日々に自分の肉体を動かし、
また、
人生を営んでいるのではないですか?どなたも自分自身に
問うてみて欲しい
のですが、あなたは毎日、守護霊や守護神、
背後霊の言葉や命令でその通りに
動いているのでしょうか?
だとすれば、あなたは人として何の尊厳も誇りも無い、

単なる霊的奴隷というか、人間ロボットにすぎないのですネ?
そんな生き方のいったいどこに、「人間的な成長」があると
いうのでしょうか?
私たち人間は他人やある何者かの指示を受けて生きるべきでは
ありません。お釈迦様が無くなられる時、アーナンダに
「自灯明、法灯明」と教えられました。それは
「自らを拠り所とせよ」「自分自身が頼りなんですよ!」
ということなのです。
私たちはどんなに苦しくとも、それに負けないで、苦心惨澹(さんたん)
しながら自己の創意工夫と不断の努力によって、なにごとも
「苦労の花を咲かせる」ところに喜びもまた一入(ひとしお)のものが
あるのであり、神はどこまでも人間に「努力することの尊さ」を
教えられるものです。

 
上記の質問の意味が判然と致しませんが、私たちは普段、自分こそが
一番頼り
なのです。「己れを信じて」生きることです。自分の本体は
なのですから、
いつも自分自身(自己の神)が自分を守っているの
です。記紀の
大己貴命の國作り」条、「大己貴命の幸魂・奇魂との
邂逅
(我れあるによりての故に…)の段をよくよく味わい、正しく
理解して戴きたい
ですネ。
 
そしてもしも、自分自身(肉体と霊魂)が穢れた時には、本来の自分
自身
(直霊)の親神でもあり、霊魂の故郷 ( ふるさと ) である
神界からの神気に触れ、魂を祓い清めて戴くのです。「魂の汚れ」
(穢れ)
というものは単なる祓いでは
清まりません。しかし、
鎮魂力のある人が祓えば、必ず祓われます。

 
具体的には鎮魂法や帰神術によって正神界の神気によって穢れの一切を
祓って
戴くのです。一体、その何処に矛盾がありましょうか?(渡辺)
 
10、天照大御神の天岩戸隠れの神話で、天宇受賣命が神懸かり
された事が
記されていますが、それはつまり独りで神懸かりなさった
という事ですか?

また、その際「お懸かりになった神様」はなんという神様であられた
ので
しょうか。というものです。
 
「神懸り」(帰神術)というものは神界から神霊を招き呼び、
神と直接して
神教を戴くことです。
 
そもそも「神に神が懸る」というのはおかしな話とは思いませんか。
『古事記』に
書かれている「神懸り」という文字は、神霊をお迎え
する時にはこのようにする
のだ…という古代人の習俗が示されている
のであり、強いて言うならば、
八百万の神々の総意」を天宇受賣命が
神懸り状態(意識の変容状態)に入って
天照大御神にお伝えしたという
わけです。それによって、天照大御神が天石屋戸
からご出御になられた
のですから、神懸りは大成功であったわけで、この場合、
決して
「天宇受賣命に何々の神が憑った…」などというものではありません。

そうした神話の読み方では我が国の古典は永遠に分からなくなります。

この『古事記』(天石屋戸条)は神意を冒涜したら、いかに恐ろしい
結果を招来するかということ、「神律の厳しさ」が説かれているのです。

 
今、世間に五万と出回っている『古事記』に関する多くの解説書は、
それぞれ
個々人の勝手な解釈ばかりであり、『古事記』を何にも
分からない者たちが
書いているのですから、例えそれらの書を
読んでも『古事記』が語る真実は決して
分かりません。
 
『古事記』は当時の諸豪族たちが有していた帝紀や本辭を
太安万侶卿が神懸りに
よっていちいち神界に質して、正しいもの
のみを一本にリンクしてまとめあげた
書物なのですから、神懸りや
霊學に精通しない者たちの、ただ単に言葉だけの解釈、
字訓だけの
理解
では、その真意を読み誤りましょう。

 
『古事記』は宇宙の成り立ちや生命の神秘、クニの形成、神律と
いったものが
説かれており、また、貴重な預言の書でもあるのですが、
その密意や尊さ
分かる者はおりません。(渡辺)
 
                         ー以上ー
 
author:渡辺勝義, category:-, 12:04
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日本人の生きる道ー教えと指図は違う
         日本人の生きる道
          −教えと指図とは違う−
                        渡辺 勝義
私たちは誰でも「神によって生かされ、生きているのだ」と言うことに
気付く必要がありましよう。
人は誰でも生きている内には様々な出来事に遭遇するものですが、
人生の岐路に立って「さて、これから如何に生きていくべきか」と
迷うこともしばしばです。

そんな時に、自分の身の内に生まれ乍らに神(霊魂)が宿っている
ことを知らない人は、ふと友人や知人に誘われるままに、
巷(ちまた)の宗教団体にすがったり、拝み屋さんや占い師などに
将来を見てもらう…等のことが生じやすいものですが、
そんな時ほど、私たちは最も要注意の時でもあり、
十分気をつけなければなりません。
 
解決の糸口が付かないような事態に直面した時には、
一切、神にお任せする」というのが
一番良い方法なのですが、常日頃、神の実在が信じられず、
また「神に任せる」ということが出来ずに、自分の人生を
自分で何とかしようとしている人は、その生き方に迷って
しまった時には結局は他に依存し、指図を仰ごうとします。
ですが、そんなことをすると余計に悩みや迷いは深くなるものです。
 
牟田耕蔵氏の著書『御神歌集』をひも解くと、
次のように教えておられます。 
○さしずをば 仰ぐことをも なからめや 神に任せし 氏子なりせば(439)
○先の事 知るも知らぬも 神任せ 神と行く身に 指図は要らぬ(548)
○身の定め 己が心で 握る時 己が迷ひは なほ深くなる(2,097)
 
先にも述べましたが、私たちは誰でも、生まれながらに身の内に
産霊大神(むすびの神)の分け御霊(みたま)を授かっており、
これこそが「本当の自分」というものです。
この産霊大神)の「分け御霊(みたま)」である霊魂は、私たちの行く末までも
すべて知悉していますから、どこまでも自分を信じて、また自分の住まいする
土地の産土(うぶすなの)神・氏神さまによく祈りを捧げ、お願いした後は、
すべて神の御心にお任せして、その時、その場で自分が出来る
精いっぱいの努力を重ねて行くならば、必ずや救いの道は自然に開かれて
いくものであり、自分以外の者に「指図を聞く」というようなことはしなくて
よいと教えておられます。

○聞くと言ふ 人の心の あさましさ 憐れなものよ 教へたきもの(1,846)
○物聴くな 身の定めをば 聴くことは 迷ひの元ぞ 神離る元(2,093)
○仇な思ひ まずなげ捨てて 神の前 神只神と ひれ伏して見よ(2,094)
○限りなき 神の力を 受けて見よ 身の定めなど 如何様ともなる(2,095)
○身の定め 己が心で 握る時 己が迷ひは なほ深くなる(2,097)
○限りなき 神の力を 受けて見よ 身の定めなど 如何様ともなる(2,095)
 
往くべきところへも行けず、地を()ような迷える低い霊魂を
見るのが良いのでは
決してありません。
私たちは普段、産土神(うぶすなのかみ)に護られているからこそ、
迷える霊など見えないのですから、なんの力もない、世間で言う零能者などに
関わったり、騙(だま)されたりしないように、十分にご注意頂きたいものです。
テレビに出てくるような、自分を神とか霊能者と称する者らの
ほとんどすべてが、こうした低級な者たちばかりなのですから、
こうした者らををウッカリ信じたりすると、とんでもないことになります。

○寄り来る 低き霊魂を 見る者は 心濁れる 不幸せの人(1,494)
○迷うなよ 心濁れる 仇人の 言の葉こそは 身を破る鉾(1,495)
ニ度とはない、尊んで余りある、このかけがえのない人生を
穢されないように、お互いに気をつけましょう。(2,013.11.22)
 
author:渡辺勝義, category:-, 01:30
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日本人の生きる道ー教えと指図の違いー
      日本人の生きる道
      ―教えと指図の違い
                    渡辺 勝義
福岡や大阪で神道の勉強会をさせて戴く時の質疑応答の中で、
守護霊があるとか、生まれ変わりがあるなどといった誤った
情報や知識に振り回されている気の毒な人々が如何に多いかを知った。
また、大抵の人は真の神懸りと低級霊の憑依の区別も知らず、
正神・邪神の区別も知らず、神と言えば何でも有り難がる
霊的に無知な人々を騙(だま)して、つまらぬ低級霊の憑依を
霊言などと称して人を欺く者が如何に多いことか。
 
本田親徳翁の著書『道之大原』によれば、次のように言われている。
天の生民を降すや一生有りて再生無し。是れ乃ち天命なり。
然り而して世間往々体の甦るを言ふ者有るは、悉く皆詐欺なり。
日に神鏡に照らされ竟に神怒に触れ体斃れ魂誅さる、
亦何ぞ帝則を望まんや、噫。

このように、生まれ替りなどを言う者は皆、全て詐欺以外の何物でもない
のだとはっきり仰っておられる。人間の一生というものは一度限りである
からこそ、他に掛け替えのない譬えようもない、貴い大切なものである
と教えておられるのである。

また、自分を真に守る者は自分自身なのであり、守護霊や守護神等と
言ったものは
無いのだと教えておられる。

上帝は四魂一霊を以て心を造り、而して之を活物に賦す。
地主は三元八力を以て体を造り、而して之を萬有に与う。
故に其の霊を守るものは其の体、其の体を守るものは其の霊。
他神有りて之を守るに非ざる也。是れ乃ち神府の命にして、
永遠に易らず。(『道之大原』)

お釈迦さまでさえ、臨終の時に臨んで
アーナンダに「自灯明、法灯明」、すなわち、「汝、自らを拠り所とせよ」と
教えて
おられるのである。
こうした世間の誤った宗教や低級霊能者たちの言葉にだまされて、
己れが生まれ乍らに賜った、神授の霊魂を汚され穢されないようにと、
どうか切に臨むものである。
 
author:渡辺勝義, category:-, 00:52
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日本人の生きる道  穢れを祓う方法
                 日本人の生きる道
              「穢れ」の祓い方について

         渡辺 勝義

  『神の道』読者の方々へ

災難を 逃るる道は 只一つ 神に任せて 罪祓うこと

祓いの原点は霊力にあり…で、(はらへ)(ことば)や大祓祝詞は神界の神則であるから、真心込めて祓い戸の神々を祈り、修祓行事(大痲・塩湯・切痲・御酒・御米・清め砂など)をすればそれなりに祓われはするが、「スッカリ」「きれいに」という訳にはいかない。              要は、その人の鎮魂力のありなしが物を言うのである

神道では死穢(しえ) を特に忌むが、しかし間違ってはならないのは、決して死者が穢れているとか、死者を忌み嫌うというのではない。
私たち人間に恐るべき死や災厄をもたらすところの強烈な「厄」を避けようとして、忌み籠り、また、塩で清めようとするのであり、これは理屈でも何でもない自然(おのずから)に湧き出る日本人の魂の証しである。

人間が犯した罪穢れには(あがな)いが必要なため、そうした人を助けようとしたり、その人の救済を願ってに祈願したりすれば、その時は自分が穢れを「受ける」というか、贖わされるのは致し方ない。一にも二にもその人の日頃の修行による。「行」というものが必要とされる所以である。

 

神前で祈願する時に最も鎮魂力が必要とされる。また、最も穢れを受ける場面でもある。

 

穢れを受けないよう、また忌み負けしないためには、日頃睡眠を十分に取り、また、シッカリ食べて、体力をつけ、体調をいつも万全の状態にしておくことが大切です。

己れの身の内に生まれながらに授かった神授の直霊
(なおひのみたま・産霊神の分け魂)を尊んで片時も離さない
こと、神から離れないことです。

吾が心 すがすがしいと 唱へかし 心清まり 身も清まらむ

 

以下は、自己の身体の変調や心境の変化が果して霊的なものに起因するか否かを判別できる人の場合を対象として、己が身を守るための防護方法を少しばかりお話致しましょう。

 

いつも他の人との距離を1.5メートル以上に保ち、それ以上は近付かないこと。

 

ややこしい問題を抱えた人とどうしても会わなければならない時は、前もって産土神にお届けして御守りをお願いしてから会うように心掛ける。

 

場の見えないところに供物(くもつ)(米・塩・水)やお茶湯などを用意し、場の見えないところに置く。

 

決して恐れてはならない。(恐れるものは来たる)

先の事 暗く考え 歩くなよ たださんぜんと光り見つめて
先の事 心配すれば 神の息 神の恵みを 己が断ち切る

 密閉された部屋で会うことは避ける。自分の体の周りを霊縛し、バリヤーを張って悪しきものを身に寄せ付けないようにする。

 

その際、向き合って相対する時は必ず正中線を外して対すること。

 

肩や腕の力を抜き、緊張しないように心掛け、また、構えないこと。

 

臍下丹田に気を充実させ、出来るだけリラックスすること。

 

相手に取り込まれないようにするためには、対者の集中力を()ぐ工夫をする。

例えば、対者との間に動くもの(金魚鉢)を置いたり、扇子を開いてパチッと音をさせて閉じるなど…(音の祓い)

 

相手に気付かれないように自分の吐く息で左右左と祓ったり、喫煙する人は煙草の煙で祓う。

 

相手に見られぬようにテーブルの下で、片手あるいは指で左右左と祓う。

 

出来るだけまともに相手を見ないようにし、また口を開かないことが望ましい。

 

この間、常に心中に神を祈念することを忘れてはならない。
「祓い給へ。きよめたまえ!」

 

会っている時間も、10分以上を越えないことである。

 

会話中にのどの奥がかすれてきたり、涸れたりして声が出にくくなった時は、それ以上は止めてその座を辞すること。「それ以上話すと穢れるぞ!」と自分の霊魂から教えられている訳。

 

人間の想いや意念というものは大したものではないが、これに妖魅・邪霊がその界に属する動物霊(主に荒魂―奇魂)を使役して加勢して、人間に(さわ)りを()すものである。

しかし、心が清らかであれば産土神が守って下さる。

 

霊が普通、肉体に入り込むことはないが半肉半霊の動物霊の場合はある。決して姿を見せない。人に姿を見られると霊力が衰えるためである。山岳信仰などのある山には必ず居て、

山で遭難したり死んだりするのは、これら山に住む動物霊(半肉半霊あるいは幽体のみ)の仕業(しわざ)である。(続く)

 

author:渡辺勝義, category:-, 02:00
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日本人の生きる道ー妖魅・邪霊について
 

日本人の生きる道

「邪霊・妖魅」というものについて

   平成25602日(日)

                 渡辺 勝義

. 魔にやられた(魔に入られる・魔に魅入られる)時
  現象

   たいていは普段でない言動、その人らしくない言動があり、よく観察していれば、誰にも「おかしいな」と気付く。当然のことながら、本人は「魔」にやられていることにまったく気付かない。魔物はその人の弱点を徹底して突いて来るのである。

   普段していることがすべて「ちぐはぐだらけ」になり、その人らしくない言動を取る。

   とんでもない、とっぴなことを言ったりしたりして、身内や周囲の人を驚かせる。

   少しずつ心境に変化が出て、正しいことが悪く見え、悪いことが正しく見えてくる。正しい判断が狂わされるので、おかしなことばかりをする。

   頭がボケてしまい、何かにつけてその人らしくない、おかしな言動、不注意な言動ばかりをするようになり、物事を任せられないようになる。何かにつけて人がしてほしいことはせずに、してほしくないこと、余計なことばかりをするようになる。

とにかく、人の気持ちを逆なでするようなことばかりを平気でしでかすようになる。それを見て、邪霊は陰で手を叩いて喜んでいるのである。

   反省心が乏しくなり、素直さがなくなる。まるで常識というものが欠如して、女性は婦人としての節度や慎み心がなくなってしまう。非常な気短かになったり、ヒステリー症状を起こし、些細なことに対しても狂人の如くになって、急に大声を出したり、泣いたり…と、手が付けられなくなる。まったく反省心(直霊→曲霊)が無くなっているのである。
周りのどんなに大人しい人をも深く傷付け、怒らせてしまうことになる。

このように大抵、邪霊は女性の背後から近づき、その後頭部に悪霊気を絶えず吹きかけて婦人としての慎み心を失わせ、ヒステリーを起こさせ、男性はといえば睾丸を抜かれて気力喪失し、勇気に乏しくなり、男女とも便通にまでも支障をきたすようになる。人格に変動を来たし、廃人同様の現象を顕して来る。

要するに、霊的に言えば、気が振られて「直霊(なおひのみたま)が曲霊(まがつひ)に変化してしまった」のである。霊的思考力を亡失してしまい、内的盲目者の如くになるのである。

何の力もないのに調子に乗って、己の力量を買い被り、自分の力利用以上のことをしでかすようになる。

これらはすべて、その人の信仰が中途半端で徹底しておらず、その人の油断や慢心、慣れ、欲心、猜疑心、心の隙(すき)を魔物に狙われ、つけ入られたのである。

これを防ぐには心に隙や油断をしなければよいのであるが、自己を深く見つめる習慣のない普通の人にはどうにも手の施しようがない。

   特に、神が世に出る時や、正義が世に顕われようとする時には、このようにして必ず、魔界の魔物たちがさんざん邪魔(妨害)をしてくる。
邪霊は実にずる賢く、家族や身内の者までも使役して、卑劣な方法で神仕えする人のご神業をあの手この手で妨害してくるので、どうにも手がつけられない。このような時には、ただ一筋に神を祈るしかない。

  このように 妖魅邪霊どもは本人が志操堅固でどうしても崩せないことを知ると、今度はその人の家族や身内までも操って陥れようとし、嫌気を起こさせようとするのが常套手段である。

一度目をつけたら最後、家の中までも侵入して来て、夫婦喧嘩を起こさせたり、事業や物事に失敗させたり…と、徹底して「一家の攪乱」をはかるものである。(離婚や喧嘩口論の原因の多くはこれ)

家族をごちゃごちゃに揉ませ、搔き回して、ついには病人や狂人を出すに至る。親子兄弟の喧嘩、夫婦離婚などは大抵、こうしたつまらぬ邪霊共にうっかりやられていることが多いのである。

勿論、親先祖の慰霊・供養を怠り、お墓を壊すなどの非礼を為した時にも、無縁仏の境涯に墜ちた先祖霊たちからの救いを求めての強いメッセージがあって、これと良く似た現象が起こることがある。

  霊に 憑かれた人は、 次第に背後で操る霊物(憑霊)の容貌(顔つき)や動作を取るようになり、憑依霊と似てくる。非常識な言動をする人や、すぐにヒステリー状態にになるような人は、こうした不良性を帯びたつまらぬ邪霊どもに支配され、踊らされているのである。

   このような場合、尊い神の御光に浴する以外に、助かる道は無い。

これによっても、神仏に仕える者にとって常日頃の真剣な「修行」が何故に必要であるかが判然として来よう。まったく少しの油断も出来ぬ道である。誰に話したとしても、こうした道理が分かるものは今、殆んどいない。正しい霊的知識や審神者(さには)する力がないからである。

 〈正神は決して不思議や奇跡を以て人を導かれない。正法に不思議な
  く、徒(いたずら)に奇を好むなかれ〉である。

 

         次回は「穢れの祓い方」について

author:渡辺勝義, category:-, 16:47
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日本人の生きる道ー妖魅・邪霊について

日本人の生きる道

 「邪霊・妖魅」というものについて

   平成25602日(日)

                 渡辺 勝義

掘ソ霊ではなく、浄霊が大切

 

例えば放射性物質の「除染」など決して出来るものではなく、今、政府がやっていることはといえば、それはただ単に「移染」にしか過ぎないのです。

これと同様に、病気や不幸、災難というものはこれ等は皆、親先祖から自分に至る、罪の(あがな)いの為なのであり、この贖いを済まさないは、単なる除霊では例え一時的に取り除かれたかのように錯覚するような現象が起こるかもしれないが、必ず、別の形で前よりも一層強く贖いをされられることになるから、むしろ危険であるとさえ言える。

「行者の末路は哀れ」という言葉があるように、世の多くの霊能者たちは早逝するか、不遇な晩年を送るか、精神異常をきたし、邪霊たちの復讐を受けるのである。

 

検ゼ拯遒燭舛両鐡綣蠱

その人の慣れや油断、心の(すき)狙って、邪霊たちがその人の魂を
誘惑し、
次から次へとつまらぬことばかりを想わせ、考えさせて、
心を陰に陰にと誘う。

どうしたものか、それまで信仰していた神仏や信じていた人を
疑ったり、
迷い心を起こさせ、不信、猜疑心を芽生えさせ、
その人を神から遠ざけよう、
遠ざけようとするのである。

邪霊に目を付けられると、信仰不徹底な者はひとたまりもなく、
皆、きれいにやられてしまう。

本人は自分が「邪霊にやられている」ことにさえ、
まったく気付かない。

そうした時はこれまで「良い」と思っていたことが「悪く」思え、

「悪い」と思うことが「良く」思えてくるから不思議である。

 

后ァ愎世瞭察戮魴り返し拝読して澄み渡る神心になるしかない。
(心を清め澄ませる「行」が如何に大切なことであるか!)

 

この世で起こることは皆、その種をまいた結果を刈り取っているのであり、人の身に起こることは皆、自業自得である。

先祖の清めといっても、自分自身の邪気を清めもしないで、なんで先祖が清められたり、周囲の業報を浄めたり出来るでしょうか。

人は皆、自ら発した、また人間がこれまで長い間に作ってき来た、邪気邪念や妖気妖念、怨念や復讐の念など、諸々の穢れた念や言動に復讐されているのです。

心からこれまでの過ぎ越し方を神にお詫びし続け、これからは真人間になることをお誓いし、忠・孝・敬神・崇祖の道を心底実行して行く以外に許されることはない。

火や水の行、その他の行は「心を澄ます」行のほんの手助けに過ぎないということを身にしみて感じることが大切です。

 

此セ爐倫詁瓠蔑彌)の時の一念が大切

人は誰でも、此の世を去る時には執着や未練、想いを何ら残すことなく、長患いすることなくスウッと往くことがとても大切です。

生きている内から、人間の肉体に属する物欲や金銭欲、名誉欲などといったものにあれこれ心奪われて、汚れ果てぬように。

また、自分中心主義の生き方でなく、「生かされて生きている」ということを自覚して、何事であっても他人(ひと)様第一に生きるように心掛け神中心

()主義で考え行動するようでなければなりません。

拙著『神の道』を繰り返し拝読して心の曇りを取り除き、神の愛というものがどんなものであるかを少しは真面目に考え、神心(かみごころ)を習い、修得して、生まれながらのうつくしく清らかな魂(たま)と身と心にならせて戴くことが大切です。

どんな人も、その内なる心の光が輝き出てくるようにならなければなりません。

生きている内から神仏様の道を歩ませて頂き、徳を積ませて頂いて、世のため人のために生き、道義に篤い、情の深い人間としてひと回りもふた回りも人間的に大きく成長しなければなりません。

あれこれ、此の世の事に深く囚われて、べたべた未練を残すようでは、

人生の本義を正しく全うした人ではないということ。

私たちは産土大神さまやご先祖様方から「よくやってくれた!」と感謝で迎えられるような御霊にならなければいけないと思います。

人は一旦、霊籍が決まると、そこから自由に動くことは出来ません。

此の世に生きておればこそ、自由にあちこち動けるし、色んな人と出会い、学ぶことも出来ます。それらは全て此の世に生きておればこそ…の話であります。

自分の心次第では、どんなに学ぶことも出来、向上も出来、人生の本義を全うすることが出来ます。すべては自分次第…というわけですネ。

吾が心で吾が魂を助けるが此の世に生まれし甲斐というもの。〉

 
author:渡辺勝義, category:-, 16:40
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日本人の生きる道ー妖魅・邪霊について
 

日本人の生きる道

 「邪霊・妖魅」というものについて

   平成25602日(日)

                 渡辺 勝義

機タ佑幸せになる道は必ずある!

 

・かくり世のさまも見せたや氏子等よめぐりめぐれる罪のあ
 りさま(101)

・黒雲は 悪鬼邪霊の 吐く息ぞ など州人は 気がつかぬ
 のぢゃ(889)

 

此の世には、折角人と生まれながら「人生の本義」を知らずに死んでいった多くの迷霊、地に堕ちた霊たちが、子孫からの真心込めての手厚い慰霊や供養が受けられず、その為に行くべきところへも行けずに、集まっては邪霊化・悪霊化して、世を汚濁し、黒雲のように世を覆っています。

彼らも本当は救いを求めているのですが、その子孫や縁につながる者たちからの温かい思いやりや死者への優しいまなざしが無いために無縁さまの境界に堕ちて凶霊化している。

この世にはそうした未成仏霊だけでなく、本当の妖魅・邪霊や半肉半霊の動物霊たちも実在しており、それらは普段決して姿は見せず、悪念を抱く人間や迷いの
にある地を()う霊たち(未成仏霊)、心汚れた者、自暴自棄した人間たちに近付き、それらを陰へ陰へと誘い、陰で悪の道へと引きずり込んでいます。

 

・業深き 霊魂の姿 なさけなや 現世の務め 怠りしもの(882)

・迷ふたる 霊魂のために この国は 災ひ多し とく助け
 たや(478)

 

ですから、私たちが日頃からそんな悪霊や迷霊たちと波長が合う(同調する)ような低い心境の持ち主であっては、到底幸せになれる筈はありません。どんな御方も天から賦与された良心(一霊四魂)を汚さず、心身を清らかに清浄に保っておく必要があるのです。

 

また、狂ったようになって子孫や親類縁者に救いを求め、念波を送って来ている各家々の親・先祖の御霊たちを救い上げるには、まこと心の祈りより他にないものです。

私たちの本当の幸福は、こうた救済を求めて狂人のように走り回っている未成仏霊を救済し、親先祖から自分に到る業・因縁を解消することより他にないと言えましょう。人さまのお役に立ち、徳を積ませていただくことが何より大切であります。

 

・先祖まず助かりて後 吾が幸は 吾が身に来るとよく悟れかし(1543)

その為には神心に習い、心の浄化を図り、敬神・崇祖の道を真に実行し、神の子として、恥ずかしくない、澄み切った心になることしかありません。「神の教え」を紐解き、神々が私たちに一体どのようにあれと教えておられるのかということを先ず第一に知るということがとても大切なのです。

 

供ジ覆「神授の魂」を決して汚すなかれ!

私たちはどんな人でも、生まれながらに産霊神から尊んで余りある分霊(わけみたま)(一霊四魂)を賜っております。なんと素晴らしいことでしょうか。

その自己の本体である霊魂を完成・成就せしめるために、肉体()をお預かりしているのです。

 

ですから、例えどんなに辛い、苦しい目に遭おうと、悲しい目に遭おうと、

決してそれから逃げることなく、すべては己の霊魂の向上と確立、完成のためと思い、忍耐し、絶えず創意工夫し、努力を積み重ねていくことが大切なことなのです。

そんなことは人に言われなくとも、誰だって自分の頭では良く分かっています。

ところが人は、誰もが決して山中鹿之助のように「我に七難八苦を与えたまえ!」などといった強靭な精神を持ち合わせてはいないし、そんなに強い生き方はそうやすやすとは出来ないものです。大抵の人は、出来るだけ「苦労はしたくない」ものです。

私たちはとても弱い生き物です。身に起こった苦難を仕方なく受け入れ、それに必死に耐えている…というのが真実でしょう。

 

「苦しみから学ぶことによって、成長や進歩向上があるのだ」とは誰もが知っていても、そうやすやすとは受け入れられない。人はその苦難から出来るだけ早く逃れたい一念から、手っ取り早く知人から勧められるままに宗教団体に入ったりします。

これは尊貴な自己の神授の魂を他に売り渡す行為に等しいのですが、思わぬ苦難に遭遇した時には、それを甘んじて受容し、乗り越えていくというのは誰だって耐え難いし、なかなか一人では苦しく辛いものです。

 

だからといってその苦しみから早く逃れたいと思い、世間によくあるように妙な宗教に入ったり、よりにもよって何の力も無い、つまらぬ霊能者・陰陽師、拝みやさんなどといった者に頼ったりすると、あたら神授の霊魂を汚されるだけでなく、とんでもない目に遭いますよ…ということだけは、是非とも知っておいて欲しいものです。

author:渡辺勝義, category:-, 16:34
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日本人の生きる道供「無私の精神」と鎮魂ー霊学初学び
            日本人の生きる道 (続き)

・『古事記』は言霊で説かねばならないが、それも神界に通づ
 る言霊(ことたま)でなければ決して分からない。
 従って、巷にあるような人智の混入した言霊学では理解を
 誤るのである。

・私たち霊学を学ぶものは、神道が「世界の神道である」とい
 うことを知っておくことが大切である。

・神の本体は光であり、熱であり、大宇宙に充満する産霊(む
 すひ)のエネルギーである。その光そのものである神に対し
 て神霊と通ずる人間の方から神名を送る。すると、その光
 はその瞬間から神名の通りの働きをするのである。奇霊
 (くしび)と言うより他にない。

・鎮魂は正神界のご神霊と直接するものであるから、そのた
 びに祓いを受けることになる。従って、鎮魂は「幽の禊(み
 そ)ぎ」とも言えるのである。

・どんなに苦しくとも、日々に鎮魂をしなければ神界にその人
 のまことが届かない。鎮魂は宇宙の大法であり、従って、
 自己のためにというよりは、大義のために行うといった心
 掛けがないと大成は難しいといえる。
 
・鎮魂をするには、「吾が霊魂は鎮魂石に鎮まる」と強く4〜5
 回思念することが大切であると述べたが、 このあと、これ
 をも突き放して「意念を断滅」し、まったくの「無」の境地 に入らなければ決して真の鎮魂にはならない。思念力には自我
 の念が入っており、鎮魂力とは異なるのである。
 西洋では「言(ことば)は神なり」などと言っているが、日本の
 神道はその言葉をも超越して「真の神霊」と直接し、己が霊
 魂に神教を賜るところの実に尊貴なる道である。

・正しい神懸り(帰神術)、つまり正神が神主に憑られる時は、
 その場が厳粛な雰囲気に包まれると共に、神主の全身に、
 犯し難い神気が充満し、次の瞬間、端正として、真直ぐ上
 方にサッと体を切られる。これを「体を切る」という。神界 に上がられる時も同様である。

・奇魂(智)の用(はたらき)について、本田翁の真道問対に
 は「感なり。悟なり。覚なり。察なり」とあるように、正しい神懸りはやたらと何かが見えたり聞えたり…ということは
 なく、ただ感ずるのみであると知っておいたほうがよい。

・曲霊(まがつひ)が憑依した場合は大きく揺れ動き、また、
 さまざまな霊動があって、グラグラしたり、倒れたり…と、
 外部的に観察していても自然に憑依する霊物が正体を
 現わすものである。

・妖魅は姿を現さないが、いやな臭いがしたり、その瞬間
 に分かるものである。また、その直前に神界からお知ら
 せを戴く。だから他感法(神懸り)においては、神主はい
 ささかも不浄・穢れを持ってはならないのである。神主
 の精神の正邪賢愚は直ちに幽冥界に通じるものだか
 らである。

・まさに「霊学は浄心にあり」であり、鎮魂は「真心を練
 る法」であるということができる。

・神主は神霊がお懸りになり、うしはぐものと書くように、
 己が神の依り代となる身であるとの自覚が必要。
 従って、厳密にいえば、神職とは異なるものである。

・通常、他感法のお稽古の場に大神がお懸りになる
 ことはめったにあるものではない。「みことのりて」
 というように、普通の場合はご眷族神がお憑りに
 なり、また、大神の御心を代行して、大神の手足と
 なって左右の御眷族神が神の御旨を告げられ、
 働かれるものである。

・佛界は一歩も魄(はく)霊から抜け出せないもの
 である。


(ご参考)


()の身にし 直毘(なおび)の神の ()すことを 知り()(のち)に 
               人とこそ言はめ 『霊魂百首』


○国の(ため)  家のためにと 身を(くだ)き 力尽(ちからつく)すぞ (あら)(みたま)なる 
                        『同上


大八島(おほやしま) (いま)黒雲が 立ちこむる あゝ神州(しんしゅう)の 事思はるる
                                       (
888
)『御神歌集』


○黒雲は 悪鬼(あっき)(じゃ)(れい)の ()く息ぞ など州人(しまびと)は 気がつかぬのぢゃ 
                    (
889
)『同上』


○神の道 (ほか)にはなきぞ父母の 恵みを知れば それが道なり(

author:渡辺勝義, category:-, 01:55
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